敦賀 金ヶ崎 古戦場と鉄道が重なるところ [②旅・鉄道]
金ヶ崎 これより先 海または隘路
1183年、源平合戦ではじめてここに城が築かれたそうです。
1330年頃、新田義貞と足利軍が戦う
1570年、朝倉討伐に向かった織田信長が、浅井長政の裏切りで挟み撃ちとなり、ここ金ヶ崎から撤退しました。この討伐軍は信長、秀吉、家康が勢揃い、秀吉の家来に山内一豊。大河ドラマ的には超豪華キャストの合戦でした。
1882年、長浜から敦賀まで鉄道が開通し、この城跡の南側に金ヶ崎駅(後に敦賀港駅に改称)が開業しました。現在もコンテナを扱う貨物駅です。
この鉄道は、はじめて日本海側に到達した路線で、後に航路と接続して欧亜連絡鉄道の一翼を担いました。(長浜鉄道スクエアHPの年表参照)
金ヶ崎は昔から、交通上の重要地点でした。
写真①↓ 金ヶ崎宮の石段から敦賀港駅を望む
- 北陸本線敦賀駅は写真右上 2km先
敦賀駅から金ヶ崎へ
3月21日春分の日、青春18きっぷで敦賀に行きました。
写真②↓ 敦賀市内の国道8号線 道路と直角に路上駐車帯がある
- 路上駐車対策、ちょうどいい交通量ならこの手がありますね。
- 交通量が多ければ出入りが危険、駐車台数が少なければ縦列駐車で事足りる。
写真③↓ 敦賀駅から約2km歩いて金ヶ崎に到着
- 写真右寄りに見える踏切が敦賀港線。
写真④↓ 敦賀港駅
- 正面から右手に続く山が金ヶ崎城址。右寄りに三つ見える建物の真中がランプ小屋
- 線路が光っているところが嬉しい。
写真⑤ 敦賀港駅ランプ小屋
《写真左側の案内板より》
- 敦賀港駅は1882年(明治15年)金ヶ崎駅として出発した。
- 敦賀は日本海側で一番早く鉄道が通った町であり、港の荷物を直接取り扱うのが金ヶ崎駅だった。
- その後、1912年(明治45年)新橋~金ヶ崎間に欧亜国際連絡列車が週3往復走るようになり、国際港敦賀は多くの人と荷物で賑わった。 (後略)
写真⑥↓ 金ヶ崎城址に向かう道 まず金ヶ崎宮の石段を登る
写真⑦↓ 山頂「月見御殿」付近にある古戦場の石碑
写真⑧↓ 月見御殿から 敦賀湾の眺望
- 正面右から突き出ている陸地が越前岬方面。
現地に立って実感・・・・退却は一刻も早く!
信長の退却について、私は漠然と「そのまま行けばいいのに!勝てたでしょう。」と思っていましたが、現地に立ってこの地形、位置関係、距離を実感してみると・・・
①浅井(北陸本線河毛駅)が裏切った。先に続く道(北陸本線福井方面)の先に敵・朝倉(越美北線一乗谷)。
②浅井は海津(湖西線マキノ駅)に侵攻。
③しかしまだ袋のネズミではない。退路(小浜線美浜方面)はある。
こうなれば、退却は一刻も早く!と言うことになりますね。
夕暮れの金ヶ崎、今も昔も変わらぬ海や山を介して伝わる歴史絵巻・・・・
特急に乗れない私に迫り来る現実の「金ヶ崎の退き口」 退却は一刻も早く!
写真⑨↓ 敦賀駅に戻ったのは夜7時近く。福井行きの521系が発車待ち。
- 敦賀駅は、こんな顔した電車の「たまり場」になってました。
- 帰りは、長浜回り新快速姫路行きで帰りました。昔なら浅井正面突破のライン。
午後から半日の旅。歩数24,000歩でした。
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